お師さんである佐藤秀峰先生にこのブログの記事を取り上げていただいたとのこと。
おかげでこのブログにもたくさんの方が来られて2日目にはきれいにいなくなるという
ありがたくちょっと寂しい現象が起こりました。

結構気を抜いてノープランで書いているブログなので、
有名人である佐藤先生のブロマガに転載されるとかなりお恥ずかしい。
しかしまあ、取り上げられるということは何にせよいいことであります。

取り上げられた記事
「作画めんどい」
(何様だよ「作画めんどい」とか脳みそなしか)

佐藤秀峰先生のブロマガ
「努力は必ず報われるか」


「努力は必ず報われるか」
かなり興味深い記事であります。
コメントを拝見するにかなり伸びておられます。

コメントをみていると調子こいて僕も努力について個人的見解を述べてみたい気持ちが
わんさか湧いてきました。

「努力は必ず報われるか」の私の答え。

「知らん!」

「人による!」

です。

というと
「才能の無い努力家と才能のある努力家だったら
結局才能の無い努力家が負けるじゃん。
努力意味なくね?」
みたいな、そんな感じの話になりますよね。

僕は思うのですが、
このような温度で語られる「努力」という言葉自体に
意味がないような気がするのであります。

努力とは行動そのものであり、それ以外の何者でもないのではないでしょうか。

そして行動した人の気持ちはもうどんな言葉を使っても
行動した人にしかわからないものなのであります。

例えば
野球選手ならバットを百万回降った。
空手家なら瓦を百万枚割った。
海女さんならあわびを何千万個採った。

それを行動した人にしか分からない体験なのであります。
だからこそ行動してない人は色々聞きたくなるんですが、
やっかいな事にこの「行動した人たち」というのは
みなさん何故だか「努力」についてあんまり語りたがらないという性質があるのです。


よって行動していない人たちにとって「努力」という言葉の本質は
不可思議なブラックボックス中に閉じ込められ、
あーでもないこーでもないと、
外でガヤガヤ言うしかないということになるのでは無いでしょうか。


このブログで最近作画頑張っているアピールを連日している僕ですが、
紙に色々描き込んでいくとたまに、
なんというか「進むべき道が見えてくる」というのは大げさですが、
「地球そのものを自分が動かしている」というともっと大げさですが、
「時代の流れがそのまま手中にある」というとますます大げさですが、
なんというか色々多方向から明らかになってくるような感覚に襲われるのです。
ま錯覚でしょうが。。。
(オクスリやってません。)
これは「努力」って感じではないようなという気がします。

佐藤秀峰先生のところでスタッフをしている時は努力していたか?
佐藤先生は本来やさしいお方ですが、
仕事場はそれはまあ最前線プロの現場ですから、
仕事の質に対しては間違いなく厳しいです。
僕はただでさえ絵がわからないズブズブの素人でしたから、
まあ控えめに言って大変でした。
何十回とダメ出しされるうちに、
何もできない無力感に打ちひしがれ、
ペンを持っている手がぶるぶる震えだし、
思考が前後左右のわからないパニックを起こし、知恵熱に頭をもたげ、
休憩時間にご飯も食べず、
村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」(名著)を読みながら
公園をぐるぐる回って自尊心を保つという不可解な行動を起こしたりもしました。

それを「努力」かというとちょっと違う気がします。
「修行」か、もしくは「苦労」でしょうか。。。


努力。


好きな異性に振り向いてもらおうとする時は努力するかもしれないですね。
なんか音楽趣味を無理矢理合わせてみたり、
着ない服を着てみたり、
カカオトークダウンロードしてみたり、、、
でもそういう時に限ってうまくいかなかったりしませんか。
なるほど女の又に力という字を書いてその後ろに力をさらに加えて「努力」
力入れ過ぎなんですね。

いたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい!


もしや、「本当はなりたくもない自分なんだけどそれに気付かず頑張ってる状態」が
「努力」なんじゃないか?


努力。。。


「努力って一体なんなんだ・・・」



おわり



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